即宗院

 


 

明治維新の10年前、討幕の合策の為西郷隆盛公と月照上人 (京都 清水成就院住職である勤皇僧 )が当院境内奥地の茶亭「採薪亭」に隠れ、幕軍の捕縛を逃れつつ江戸幕府転覆の策を謀り、ここより密令を発して諸藩と連携のもとに維新の大業を完遂した。

 

採薪亭は現存しないが、寛政8年(1796)当院第十三世龍河和尚が、ここを閑居の庵とした自然居士(1200年代・観阿弥作能楽のモデル)を偲び一宇の草庵を建てたことに始まる。建物は方三間、二階建、階上には「雲居」の額を掲げ、階下を「採薪亭」と名付け、もっぱら茶室として使用された。狐狸が闊歩する東山三十六峰のひとつ「慧日山」の裾野にあり、新撰組や幕府の追っ手を逃れ謀議するには格好の隠れ処であった。  

 

隆盛公は、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦に際しては、当地に薩摩軍の屯営を構え、本院の裏山山頂に砲列を敷き、洛中に向かって打ち込んだ。 大砲の玉は届かないが、砲声が洛中に響き渡り、幕軍が恐れをなし都を離れ勝利を手中にした。

 

倒幕後、隆盛公は明治維新で戦死した霊を供養するため斎戒沐浴し、524霊の揮毫をおこない、明治2年に「東征戦亡の碑」を建立した。
明治維新の歴史に登場する「生麦事件」の奈良原喜左衛門、幕末の「人切り新兵衛」こと田中新兵衛(雄平)の墓碑が存在する。

 

 


 

 

 

即宗院

 

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