即宗院

 

即宗院

剛中玄柔和尚 と山門を護る仁王像

臥雲山即宗院は、薩摩藩(現・鹿児島県)東福寺城の守護大名であった六代目島津氏久(1328−1387)の菩提のため、南北朝元中(南朝での元号)4年、剛中玄柔和尚(東福寺第五十四世住持)を開基として創建された。院号は氏久の法名「齢岳玄久即宗院」に由来する。

永禄12年(1569)に焼失したが、慶長18年(1613)島津家久によって再興された。以来、薩摩藩の畿内菩提所とされ、藩より七十石が施入されるほど深い関係が結ばれてきた。現山門は再興時のもので、門の左右に安置された仁王像は石造りで、本山塔頭寺院の山門仁王としては稀有な存在である。

開山剛中玄柔和尚(1318−1388)は薩摩藩主の猶子(養子)として豊後国(現・大分県)に生まれた。東福寺住持第三世大明国師(南禅寺の開山)の法嗣玉山玄提に師事し、その法を継承したのちは大慈寺(鹿児島県)・南禅寺・東福寺に歴住した。その間中国の元に渡り、6年間仏教と儒学を学び、朱子学の権威となった。また帰朝時には大蔵経を請来し、本院に寄付した。嘉慶2年5月27日、世寿71歳で入寂した。

 

 

即宗院


大蓮弁と即宗院本尊 宝冠釈迦如来佛座像

 

即宗院の本尊は、宝冠釈迦牟尼像で、室町院派の仏師が作成したものである。院派は、平安時代から室町時代の仏師達で、貴族社会での引きが強かった。
室町時代に入り禅宗との関係が強くなった。院派は、仏像に仏師の名前を銘記することが少なかったので、即宗院の本尊も、仏師は特定されていない。京都大学の調査で、室町時代の作で間違いないことが確認されている。
本尊釈迦牟尼仏は、宝冠を備えており、お釈迦様がお悟りをひらかれた時のお姿を現している。
その後、衆生(民衆)の穏やかな心の為に布教・説法に入られた。

 

東福寺は、嘉永2年(1236年)から建長7年(1255年)までの実に19年を費やし完成された。 この際、奈良大仏より大きい大仏(木造・高さ十五m強)が建立され、京の「新大仏」とも言われました。その台座には大小の蓮弁が配置され、釈迦尊像である廬舎那仏立像が祀られていた。

奈良の大仏の蓮弁は十四枚からなっているが、東福寺大仏は、それ以上の大小の連弁が配置されていたと考えられる。 大仏は明治十四年に焼失し、大の左手と連弁だけが焼け残った。
大連弁は大きさが126cm×93cmも有り、現在では即宗院のものと他には 1枚しか残っておらず、貴重な宝物となっている。小連弁(64cm×56cm)は、約20枚程残っている。

 


泥金が残り、当時の金箔の様子が類推される。
尚、大仏の御左手(2m)が現在東福寺の法堂(本堂)に祭られている。蓮は灼熱の国インドにおいて、凉しい水辺に咲くことから、苦しい現実世界に対する理想郷の象徴として、古来より親しまれてきた。
仏教においては、泥の中に美しく咲くことから、煩悩から解脱して涅槃の清浄の世界に生きる様を象徴するものとされている。

 

 

 

 

西郷隆盛と幕末

 

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